2011年7月アーカイブ

per capita

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 先日買ったWorld Factfileを学校に持って行っては同級生に見せたりしてます。「立派な本!何ポンドだった?」と聞かれて「19.9ポンド」と言ったら目を丸くしますが、一息あとに「それが5ポンド」というと、納得されるというパターンを楽しんでます。

 トルクメニスタンから来た生徒は、いつも新入生の自己紹介のときにお返しの自己紹介で自分の国のことだれも知らないことをちょっと嫌がっていたので、この本でトルクメニスタンのページを見せてあげると、とても喜んでました。私もはじめてその位置や人口などの情報を知りました。もし、これから旅行でトルクメニスタンに行くことがあっても知り合いが居るので心強いです。

 コモンウェルス(Commonwealth)と聞いてピンと来る方はそう多くないと思います。私も娘が英国留学してから関係情報に気を留めるようになったので記憶に残っているだけでした。
 コモンウェルスが普通は「英連邦」や「イギリス連邦」と邦訳されていると聞けば、地理や歴史に興味のある人たちであれば、「知ってる、カナダに先日ウィリアム王子夫妻が行かれてたのがそうだよね。まだ英国女王が君主として君臨してるみたいだね。」「なに?もうそんなもの無くなってるはずだよ、昔大英帝国ってのがあったけど、既に第二次世界大戦前に崩壊したはずだ」などの声が出てくるのではないでしょうか。

ディケンズ 英国に来て最初のころに、ディケンズの二都物語に関連した記事を書きました。それはブラックヒースを通るシューターズヒル・ロードについて「ああ、これがあのディケンズの小説の冒頭に出てくるシューターズヒル・ロードなんだ!」と感激して書いたものです。

 そして、小説の中に出てくる坂道はこんな平らなところだったのかな。とバスで通るたびに思っていました。ブラックヒースのあっただろうグリーンの平原の端に坂道がありますから、ここがその現場かなとも思ったりしましたが、その先はブラックヒースではありません。まあ、小説はドキュメンタリーじゃないし、当時の人にもシューターズヒルの名を出せばどのあたりかわかるくらい有名なとこだったんだろうと納得していたんです。


ケベックハウス 2011年6月25日(金)私が渡英してまもなく、まだ語学学校に通っていないころに、ダーウィン邸を訪ねたことを書きました。でも、その翌日くケベックハウスというところを訪ねたこともははまだ記事にしていませんでした。それは、ぜひとも訪ねたい場所がもう一箇所あり、その後に記事にするつもりだったからです。

 このケベックハウスの当主だったジェームズ・ウルフは18世紀半ばの英国軍人です。この屋敷を訪ねたのはダーウィン邸を訪ねたのと同じ目的で、私が馴染んだ18、9世紀の英国文学の「空気」を感じるためです。

漱石と荷風

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荷風漱石 ここ数ヶ月、なぜか永井荷風を読んで、渡英にあたっては夏目漱石を読みました。実際に読むことができたのは、亡母が残した日本文学全集が納屋に残してあったからですが、今は流行らなくなった文学全集もなかなかいいものだなと見直しました。

 この二人に特に共通点があって読み込んだわけではなく、全く違った作家だと認識していました。かたや教科書に載ったり入試に出たりするいわゆる文豪ですし、方や文化勲章は受けたものの花柳小説の作家ですから、私にとっては対照的な二人でした。

男性・女性

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 ロマンス語系の外国語を学習された方はよくご存知なんでしょうけど、第二外国語にドイツ語をとった私も、いちおう知識としては、名詞に男性と女性があることを聞いてはいました。

 昨日、通っている語学学校の生徒で、スペイン人の少年が「性別はないのか」と聞きました。もちろん、彼も英語にそんな区別はないのは百も承知で、だけど一応聞いてみたかったんでしょう。

英国文化

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 100年前に夏目漱石が苦しみながら二年間のロンドン滞在のうちに移った五ヶ所の下宿をたどってみましたが、いろいろと考えさせられるものもあります。

 一番は彼の苦しい生活ですが、文筆家の創作物から内面を判断するのは難しい面もありますし、事実を追求してもしかたがありません。それを置いては痛切に感じたのはその時代の建物がよく残っていること。今でも簡単にそれを探索することができることです。
 100年前の建物も住所もそのまま使われているからですが、翻って漱石が生まれ暮らした東京、松山、熊本で同じことができるでしょうか。帰国後三年間住んだ旧居は明治村に保存されているようですが、いわば昆虫が標本として虫ピンで留められているようなものです。

 前回「漱石の足跡(その4)」に書いた漱石の4番目の下宿を見て、「狭いなぁ」と感じられた方も多いかも知れません。実際広くはないでしょうが、十分な広さはあっただろうと思います。地下室はないタイプですが、三階建てのテラスハウスで、航空写真を見ますと裏に建屋がありますからこれが当時のロンドンで一般的だった半地下の役割をしていたものと考えられます。都心部よりも土地に余裕があるので、下にあるべきものを一階に持っていったのでしょう。
 そのうえで、間取りを推量すると、普通は地下にあるキッチンとユーティリティ、使用人の居室が裏手にあるでしょう。一回には玄関ホール、レセプションとダイニングルームがあるはずです。二階にはバスルームと二つのベッドルーム。三階にも二つのベッドルームがあります。おそらく住居表示としては5ベッドルームということになるでしょう。日本的な言い方だと、5LDKです。

 そこに何人住んだんでしょうか。また倫敦消息を見ると「新宅には三階に寝る妹とカーロー君とジャック君とアーネスト君である。カーロー君とジャック君は犬の名であってアーネスト君はここの主人の店に使っている若き人間の名である。」とありますから、三階の一室には下宿の主人の妹と犬二匹、それに使用人が一部屋ずつ占領したでしょう。二階に漱石、それと後に来たであろう池田菊苗が一室ずつ、一階の部屋は普通は下女が住まうでしょうが、おそらく主人夫婦が入ったでしょう。これはまた倫敦消息の「我輩の敬服しかつ辟易するベッジパードンは解雇されてしまった。我輩は移転後にこの話を聞いて憮然として彼の未来を想像した。」という記述から確かめられます。ペッジパードンとは雇用されていた下女の漱石がつけたあだ名ですが、下女がいないということは、皆が降りてくる前に朝食のしたくをする役割をする人がそこに住むだろうからです。
 三階のほうがバスルームがないぶん広いのですが、おそらくバスルームが近いほうが下宿人のため、そして食事を摂るのは一階のダイニングルームですから、これも降りやすい二階のほうがよかったんだと思います。

書店散策

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 通っている語学学校が繁華な街、日本で言えば新宿か渋谷みたいなところにあるので、散策するところには事欠きません。sohoという歌舞伎町と新大久保を足して二で割るついでに健全化したようなとこともあって、なかなか面白いです。
 映画館や芝居小屋もとても多いです。日本も一時廃れていた映画館が少し息を吹き返しているのと状況は全く違って盛況なものです。芝居は日本じゃ好事家のものと決まっていますが、こっちはオペラ・ミュージカル・バレーなども映画よりもちろん高いのですが、とても盛んです。でも、私はまだ行っても言葉がわからないので、当然行きません
 家内はデパートめぐりが好きなのですが、私は退屈なだけなので、行くのは書店ばかり。これは狭い範囲ですが回数はかなり行きました。私が英国で初めて行った書店はハッチャーズと言って、ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」に出てくるので嬉しくていったのですが、ちょっと格式ばったところに感じました。古典はここがよさそうでした。

 漱石はカンバーウェルに下宿していたころ、さすがに都心に近かったため芝居見物や英文学の個人教授、資料収集などに一番活発に活動していました。
 カンバーウェルに引っ越した理由のひとつが、ロンドン大学や大英博物館に行くのに便利だということもあったのかも知れませんが、彼の英語力ではロンドン大学での聴講も聞き取れるはずもなく挫折し、あとはこのときに収集した本などを翻訳する作業に没頭するしかなかったのですが、一応クレイグ先生の個人レッスンだけ受け続けていたようです。それもほとんど聞き取れなかったようですが、15ポンドもらっていた留学費から7シリング(20シリングが1ポンドでした)を費やしています。

 そのクレイグ先生についても永日小品に書いていますがサミュエル・ジョンソンはかくありしかといいたいくらいシェークスピア辞書の編纂に没頭する日々が、これもかなり諧謔的にかかれています。「自分は全く先生の辛抱に恐れ入った。ついでに、じゃいつ出来上るんですかと尋ねて見た。いつだか分るものか、死ぬまでやるだけの事さと先生はダウデンを元の所へ入れた。」そういえば、こういう人物がディケンズのデイビッド・コパフィールドでしたっけ、に出てきますね。何故か没年も帰国後2年ほどと書いていますが実際には1906年の没ですから、4年後になくなっています。
 永日小品のみを読むとさしたる成果もなく生涯を終えたかのように思えますが、今でもアマゾンでクレイグ先生の著書を買うことができます。

 漱石は英語の教師として英語学を研究することを生業としたのですが、多くの明治時代人がそうであったように、前時代つまり江戸時代の学者が漢学を学んだ流儀で英語を日本に役立てようとして挫折します。つまり、維新前は漢学者がすべての高い水準の先進文化に通暁して、その源は漢籍にあるという状態でした。ある意味で国学の勃興はこの状態への不信から起こったわけですが、急激に工業化を進めることで発展していた英国を中心とする西欧文明は、本の中に固定されているものではありませんでした。これは、私を含めて多くの日本人がいまだに感じている英語への挫折感の一面ではないでしょうか。


 頼みの同宿者が長期出張にでかけてしまい、孤独にさいなまれる漱石は新聞を読んでもっと家賃が安く、都心に出やすいらしい下宿をさがしたのでしょう。妻への手紙でも「以前のところは東京の小石川のようなところであったが、今回は深川のようなところである。どちらにしても辺鄙なところである。」と書いていますが、ロンドン北西部の住宅地からテムズ川南岸の工業地帯のようなところに越したのです。住所はカンバーウェルのフロッデン通り6番地(6 Flodden Rd, Lambeth, Greater London SE5 9)です。

ハーマジェスティー劇場 ここは深川にというより大震災後に大変貌をとげた東京の現状からすると、杉並から川崎に越したようなものと言ったほうが今ではわかりやすいかも知れません。
 同じことを「倫敦消息」に書いていますが、その中に「せんだって「ハー・マジェスチー」座で「トリー」の「トェルフスナイト」を見た。脚本で見るよりはる)かに面白い。」と書いています。
 写真がその芝居小屋、というより名前に負けない宮殿みたいな作りの劇場ですが、ヘイマーケットという漱石が最初の宿から迷い出てたどり着いたトラファルガー広場に続く通りにあります。私も通学の帰りに毎日この前でバスを待っています。この劇場は何度か建て変わった最後のものが現存していますし、漱石が芝居を観たのも現在の建物です。
 その100年前にはこの劇場は(建物は建替わってはいますが)ヘンデルがここを中心にオペラやオラトリオを発表し、ということは彼の主人であるジョージ王がドイツから来て、現在の英国王朝のもととなるハノーバー朝を立ち上げたばかりのころに既にここにあったものです。

ドアの前 19世紀がまさに終わろうとする1900年10月28日に、ロンドン生活の第一歩を踏み出した夏目漱石はブルームズベリーの一角に仮の宿を置きました。ここは今でも留学生が多く住んでいます。漱石が寄宿した76番地も当時のまま残っています。一時はドアがはずされていたとも聞いていますが、今はドアもあり番地も表示されています。漱石はここが4階建てと書いていますが、実際は3階と地階です。ビクトリア朝の建物にはよくあるもので、現在の英国の建物だと1階にあるキッチンや洗濯場は地階にあります。そして、使用人の居室もそこにあり、文字通り下働きのための区域でした。でも、人工照明の乏しい当時の知恵として、明り取りの堀が掘ってあるのが見えますね。一階は玄関ホールや応接間、書斎などを置き、バスルームは2階。ベッドルームは2階以上にあります。

 ここは大英博物館も近いところです。この博物館は当時は図書館も併設していて世界中の碩学が集っているところでした。
 資本論を書いたカール・マルクスも、既にその第三部まで公刊して、まだ毎日をその図書館で研究を続けている、ちょうどそのころです。とはいえ漱石の頭の中には既に亡くなったカーライルのことしかなかったようで、彼の著書にも行動にも全くマルクスの影は見えません。歴史学者でも経済学者でもなく、英語教師であった漱石の守備範囲からは全く外れていたのでしょう。

ゴウアー街「 表へ出ると、広い通りが真直まっすぐ)に家の前をつらぬ)いている。試みにその中央に立って見廻して見たら、眼に)る家はことごとく四階で、またことごとく同じ色であった。隣も向うも区別のつきかねるくらい似寄った構造なので、今自分が出て来たのははたしてどの家であるか、二三間行過ぎて、後戻りをすると、もう分らない。不思議な町である。
 夏目漱石の「永日小品」のなかの「印象」の書き出し部分です。ロンドン滞在中の彼はかなり精神的に参ってしまったといわれていますし、彼自身も自虐的にそう書いています。しかし、そんなこととは無関係にこの作品は100年前に彼が留学した当時のロンドンに誘い出してくれます。

チェイニー

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 英国に来てから、いろいろなところを見物してあるいていますが、郊外とはいえかなり都心に近い高級住宅地であるチェルシーに来てみたのにはわけがあります。それは、渡英に先立って「倫敦塔」などの英国関連著書があり、彼自身英語教師として少なからず英国文学とのかかわりがあり、1900年といいますから100年以上前に渡英経験がある夏目漱石を読み直してきたからです。
 読み直したというよりは、「我輩は猫である」「坊ちゃん」「道草」などを中学生のころによんだだけどいう、普通の日本人と同じ程度の漱石に関する読書暦しかありませんでしたから初めて読んだといっても間違いじゃありません。「吾輩は猫である」でさえ「こんなこと書いてあったかなぁ」と思うことしばしばで、おそらく中学生のころは読んでいるうちに退屈になって読み飛ばしたものと思われます。人生経験をつむと、漱石が書いていることもよくわかる部分が多いですし、難しいところは「また衒学的な悪い癖がでてる」程度に読み飛ばしますから、面白いだけで全く苦になりませんでした。

 その漱石がロンドン時代の思い出を書いているものの中に「カーライル博物館」がありますが、その博物館がチェルシーにあるからというのが今回の小旅行の動機です。
 「我輩は猫である」に『しかし自分が胃病で苦しんでいるさい)だか ら、何とかかんとか弁解をして自己の面目を保とうと思った者と見えて、「君の説は面白いが、あのカーライルは胃弱だったぜ」とあたかもカーライルが胃弱だ から自分の胃弱も名誉であると云ったような、見当違いの挨拶をした。すると友人は「カーライルが胃弱だって、胃弱の病人が必ずカーライルにはなれないさ」 と)め付けたので主人は黙然もくねん)としていた。という部分があります。初めのほうなので、なんとなく記憶されているかたも多いでしょう。当時の文学者にとって、カーライルはとても馴染み深く尊敬すべき人物として記憶されていたということでしょう。


バス停 フルハム・ロードという名前を聞いて思い当たる人も少なくなったでしょう。その昔、「疑惑の銃弾」などと週刊誌上をにぎわした方のお店の名前だと思います。私もこのことがなければ、フルハム・ロードを知ることもなかったでしょう。写真は私がロンドンの街中にある学校への通学途中に回り道をしてチェルシーにきたときに、たまたま乗り換えのために降りたバス停です。
 チェルシーは、ロンドンの西の郊外にあたる瀟洒な高級住宅地です。アガサ・クリスティーの作品でも、金持ちの子女が遊ぶところとして描かれています。
クレセント これは、そこで見かけたクレセント(三日月形の集合住宅)です。クレセントといえば、バースにあるロイヤル・クレセントが有名で、素晴らしいものですし、市街地ではピカデリーサーカスから北西に伸びるリージェントストリートもクレセントの形をしています。
 ここのは、もちろんもっと小型ですが、それだけに瀟洒なもので、魅力的な街の雰囲気を醸し出しています。
ソニー3D テニス場内にある花できれいに飾られたテーブルのある気持ちのいいベンチに座って、持参の弁当で腹ごしらえしてから、場内をざっと見ていたら、センターコートの建物でソニーがテニスの試合の3D画像の実演をやっていました。
 確かにテニスのボールの動きが奥行きを持って見えますから、ネットにかかったのかどうかなど、よくわかります。でも、普通のテレビでさえ見ないのに、こんなもの不要だということが家内との結論になりましたが。

 2011年7月2日(土)は久しぶりに家内と出かけました。行き先はロンドンの南西の郊外ウィンブルドンです。ちょうどイングランドテニスクラブのチャンピオンシップが開催されていて、これは世界の四大大会のひとつだと言われているそうで、テニスは全くの門外漢である私でも日本にいるころからよく知っています。
 BBCでも試合は細大漏らさず中継されていて、話の種に是非行ってみようとでかけました。

昨日は英語学校への登校からいつものコースを外れて54番でルイシャム、185番に乗り換えてヴィクトリア、それからピカディリーを通るバスに乗り換えてハイドパークの南側を通って行きました。
 ハイドパークといえば、1851年、ちょうど私が生まれる100年前に第一回世界万国博覧会がロンドンで開かれたときの会場です。日本が参加したのは第二回のパリ万博のときからですが、ロンドン万博はヴィクトリア朝の繁栄を印象付ける一大イベントとして記憶されています。

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