その第一回として取り上げたいのは、この館を建てたアダム・ニュートン(Adam Newton)です。ほぼ同時代の科学者であるアイザック・ニュートン(Isaac Newton)と同姓ですが、アイザックがイングランド人であるのに対し、アダムはスコットランドの人です。
アダムは長らくフランスのポワトゥー(Poitou)にある学校で教師として過ごした学者ですが、スコットランドに戻って1600年ごろに、ジェームズ6世(後のイングランド王)の息子であるヘンリー王子(Henry Frederick Stuart)の家庭教師(tutor)に指名されました。
そして1603年にジェームズ6世がイングランドの王になってすぐ1605年にはイングランドに帰化しています。同時にダーラム大聖堂(Durham Cathedral)
の司教職(deanery of
Durham)を手に入れました。これは当然ジェームズ王の威光によるものです。そして直後の1607年には、チャールトン・マナーをJames
Erskineから4500ポンドで購入し、すぐにチャールトン・ハウス建築にに着手しています。
これはいかに司教職からの収入が多額なものかがわかりますが、彼は代理人を立てただけで、実際にダーラムに赴任することはありませんでしたからロンドン近郊のチャールトンを領地にすることができたのです。
1610年にアダムはヘンリー王子の家庭教師職を終え、そのすぐあと1612年にヘンリー王子は腸チフスのため逝去しますが、その年にヘンリーの弟のチャールズ王子の出納責任者となります。そしてチャールトンハウスは完成しました。
1620年にアダムはダーラム司教職を売却し、準男爵(baronet)となり(購入し)、実質的に貴族の仲間入りをします。
これはいかに司教職からの収入が多額なものかがわかりますが、彼は代理人を立てただけで、実際にダーラムに赴任することはありませんでしたからロンドン近郊のチャールトンを領地にすることができたのです。
イングランドへの帰化や司教への就任という彼にとって大事な年であった1605年ですが、私生活でも結婚という大きな出来事がありました。相手はキャサリン(Katherine)といい、エリザベス1世時代の国璽尚書(lord-keeper of the great seal)であったジョン・パッカリング(Sir John Puckering)の末娘でした。近所の人の話や掲示などで、家内などはチャールトン・ハウスはイングランドの王室のものだったとか、王子の居城だったなどと思い込んでいたようです。私も その話や、立派な建物から「王室ゆかりの」とこのブログでも書きましたが、よく調べてみると、アダムがヘンリー王子の家庭教師であったことから連想され、 特にジョン・イーブリン(John Evelyn)も日記でそう書いていることから地元の伝説になったものと思われます。
先日行われたオープンハウスの資料でも、その伝説も考慮してわざわざ it is unlikely that the house was at any time a royal residence. とコメントしています。
1610年にアダムはヘンリー王子の家庭教師職を終え、そのすぐあと1612年にヘンリー王子は腸チフスのため逝去しますが、その年にヘンリーの弟のチャールズ王子の出納責任者となります。そしてチャールトンハウスは完成しました。
1620年にアダムはダーラム司教職を売却し、準男爵(baronet)となり(購入し)、実質的に貴族の仲間入りをします。
その後、サー・アダ ムは1630年1月13日になくなり、自ら建て直したチャールトンの教会に葬られました。彼のスコットランドからイングランドへの生涯は、まさにジェーム ズ1世とともにあり、ステュアート家がイングランド王位も継承するなかで、イングランドに資産を築きチャールトンに美しい館を残したのです。準男爵とは、Lordの肩書きで呼ばれる本物の貴族に対し、Sirの肩書きで貴族ではないと言われますが、ジェイン・オースティンの小説などでも、ほぼ貴 族と同じ扱いで書かれ、貴族名鑑にも載せられています。アダムの準男爵拝領は、国王への献金から得られたもので、その後も財政的理由のためにジェームズ1 世は準男爵を多発しています。
準男爵は地位は低いとはいえ爵位であり、同じSirの肩書きをもつが単なる叙勲であるナイト(勲爵士)とは全く違 うものです。事情を知らない人が「卿」と翻訳することがあり、有名な例ではニュージーランドの登山家で、エベレスト初登頂のためにナイトに叙せられた サー・エドモンド・ヒラリーことを「ヒラリー卿」とした例があります。


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