日本文学の最近のブログ記事

ゴウアー街のホテル 私が前回ロンドンの語学学校に通うために渡英した直後から、「漱石の足跡」として5編のブログ記事を書きました。その一回目がゴウアー街76番地の宿についてでした。これを書いたときに参照したものは「漱石の五つの下宿」などと書いてあったので、私もそういう風に記述していますが、最近になって「漱石と不愉快なロンドン」などの詳細な調査に基づく研究を参照すると、私のイメージとはかなり異なっていたことに気付きました。

思い出す事など

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夏目漱石肖像 つい先日、夏目漱石の「思い出す事など」を読みました。これは1910年(明治43年)に伊豆で胃潰瘍で出血の発作を起こし危篤状態に陥ったときのことを回想したものです。
 夏目漱石の著書はまだ子供のころに主なものを読んだだけで、面白いことを書く人だくらいの認識しかありませんでしたが、今回ロンドンに来て彼の足跡を辿ってからは興味をもって読むようになりました。このブログでも、彼が五ヶ所も転々としたロンドンでの下宿跡について書きました。

 母から譲り受けた文学全集のなかからあらかじめ夏目漱石の作品だけロンドンに持参しましたが、青空文庫という非常に立派な無料で公開されているネット上の書物があることに気付きましたので、実際にはそれを読んでいます。

放浪記

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放浪記.jpeg 青空文庫で林芙美子の「放浪記」を読みました。思い出せば、鹿児島の桜島に古里温泉というところがあり、中学校の修学旅行で立ち寄りました。また、大学のときに九州一周ドライブでも立ち寄りました。記念碑のようなものがありましたが、何のことかよくわからず、感心したらいいのかどうか迷ったことだけを覚えています。

 今回「放浪記」を読んでやっと分かりましたが、林芙美子の母親の出身がここの温泉宿なのです。林芙美子自身もしばらくここに預けられたことがありますが、馴染めず小学校三年くらいの年齢で大阪に居る両親のところに単身戻った、つらい思い出のところです。
 作品中ではまったく好意的に書かれていないのですが、観光名所にしてしまうのは、紫式部がほんのしばらくいたために源氏物語のゆかりの地にしてしまったり、万葉集に流刑された男と都の女の歌が贈答されたものが半分を占めるという特異な巻があるために流刑地が万葉集の里にされた福井の武生みたいなものです。

青空文庫

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青空文庫.jpeg 携帯電話をシンビアンからアンドロイドに換えて、変わったのはフェイスブックの使いでがよくなったことです。それと、趣味でやってる為替取引がやりやすくなったこと。今までだと、パチンコでいえば玉をセットしてあとは自動であなたまかせにしている感じだったのが、今では刻々の値動きを知ることができるので、玉を見ながら打ち方を調整し、流れが変わったらやめたり始めたりって感じでしょうか。オンラインゲームみたいなものですが。

漱石の心持

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london 19th.jpg 夏目漱石のロンドン滞在中の下宿を訪ねて、記事をいくつか書きましたが、資料として随筆を読み返してみると、あたりまえですが彼の観察眼と筆力には感心させられます。例えば「倫敦消息」という病床の正岡子規にあてた手紙があって、対外発表用の文学作品とはまた違った面白さがあります。
感心に大概は日本の奏任官以上の服装をしている。この国では衣服では人の高下が分らない。牛肉配達などが日曜になるとシルクハットでフロックコートなどを着て澄している。しかし一般に人気が善い。我輩などを捕えて悪口をついたり罵ったりするものは一人もおらん。ふり向いても見ない。当地では万事|鷹揚に平気にしているのが紳士の資格の一つとなっている。むやみに巾着切りのようにこせこせしたり物珍らしそうにじろじろ人の顔なんどを見るのは下品となっている。ことに婦人なぞは後ろをふりかえって見るのも品が悪いとなっている。指で人をさすなんかは失礼の骨頂だ。
 この描写には我が意を得たりと拍手したくなります。現代ではドレスダウンの風潮から日曜にシルクハットにフロックコートという出で立ちはありませんが、ワーキングクラスでも(あるいは特に)きちんとします。それ以上に普段から他人の顔を見ない、指差さないなどは今でも守られていて、漱石の書いた通りです。

漱石と荷風

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荷風漱石 ここ数ヶ月、なぜか永井荷風を読んで、渡英にあたっては夏目漱石を読みました。実際に読むことができたのは、亡母が残した日本文学全集が納屋に残してあったからですが、今は流行らなくなった文学全集もなかなかいいものだなと見直しました。

 この二人に特に共通点があって読み込んだわけではなく、全く違った作家だと認識していました。かたや教科書に載ったり入試に出たりするいわゆる文豪ですし、方や文化勲章は受けたものの花柳小説の作家ですから、私にとっては対照的な二人でした。
 前回「漱石の足跡(その4)」に書いた漱石の4番目の下宿を見て、「狭いなぁ」と感じられた方も多いかも知れません。実際広くはないでしょうが、十分な広さはあっただろうと思います。地下室はないタイプですが、三階建てのテラスハウスで、航空写真を見ますと裏に建屋がありますからこれが当時のロンドンで一般的だった半地下の役割をしていたものと考えられます。都心部よりも土地に余裕があるので、下にあるべきものを一階に持っていったのでしょう。
 そのうえで、間取りを推量すると、普通は地下にあるキッチンとユーティリティ、使用人の居室が裏手にあるでしょう。一回には玄関ホール、レセプションとダイニングルームがあるはずです。二階にはバスルームと二つのベッドルーム。三階にも二つのベッドルームがあります。おそらく住居表示としては5ベッドルームということになるでしょう。日本的な言い方だと、5LDKです。

 そこに何人住んだんでしょうか。また倫敦消息を見ると「新宅には三階に寝る妹とカーロー君とジャック君とアーネスト君である。カーロー君とジャック君は犬の名であってアーネスト君はここの主人の店に使っている若き人間の名である。」とありますから、三階の一室には下宿の主人の妹と犬二匹、それに使用人が一部屋ずつ占領したでしょう。二階に漱石、それと後に来たであろう池田菊苗が一室ずつ、一階の部屋は普通は下女が住まうでしょうが、おそらく主人夫婦が入ったでしょう。これはまた倫敦消息の「我輩の敬服しかつ辟易するベッジパードンは解雇されてしまった。我輩は移転後にこの話を聞いて憮然として彼の未来を想像した。」という記述から確かめられます。ペッジパードンとは雇用されていた下女の漱石がつけたあだ名ですが、下女がいないということは、皆が降りてくる前に朝食のしたくをする役割をする人がそこに住むだろうからです。
 三階のほうがバスルームがないぶん広いのですが、おそらくバスルームが近いほうが下宿人のため、そして食事を摂るのは一階のダイニングルームですから、これも降りやすい二階のほうがよかったんだと思います。

 漱石はカンバーウェルに下宿していたころ、さすがに都心に近かったため芝居見物や英文学の個人教授、資料収集などに一番活発に活動していました。
 カンバーウェルに引っ越した理由のひとつが、ロンドン大学や大英博物館に行くのに便利だということもあったのかも知れませんが、彼の英語力ではロンドン大学での聴講も聞き取れるはずもなく挫折し、あとはこのときに収集した本などを翻訳する作業に没頭するしかなかったのですが、一応クレイグ先生の個人レッスンだけ受け続けていたようです。それもほとんど聞き取れなかったようですが、15ポンドもらっていた留学費から7シリング(20シリングが1ポンドでした)を費やしています。

 そのクレイグ先生についても永日小品に書いていますがサミュエル・ジョンソンはかくありしかといいたいくらいシェークスピア辞書の編纂に没頭する日々が、これもかなり諧謔的にかかれています。「自分は全く先生の辛抱に恐れ入った。ついでに、じゃいつ出来上るんですかと尋ねて見た。いつだか分るものか、死ぬまでやるだけの事さと先生はダウデンを元の所へ入れた。」そういえば、こういう人物がディケンズのデイビッド・コパフィールドでしたっけ、に出てきますね。何故か没年も帰国後2年ほどと書いていますが実際には1906年の没ですから、4年後になくなっています。
 永日小品のみを読むとさしたる成果もなく生涯を終えたかのように思えますが、今でもアマゾンでクレイグ先生の著書を買うことができます。

 漱石は英語の教師として英語学を研究することを生業としたのですが、多くの明治時代人がそうであったように、前時代つまり江戸時代の学者が漢学を学んだ流儀で英語を日本に役立てようとして挫折します。つまり、維新前は漢学者がすべての高い水準の先進文化に通暁して、その源は漢籍にあるという状態でした。ある意味で国学の勃興はこの状態への不信から起こったわけですが、急激に工業化を進めることで発展していた英国を中心とする西欧文明は、本の中に固定されているものではありませんでした。これは、私を含めて多くの日本人がいまだに感じている英語への挫折感の一面ではないでしょうか。


 頼みの同宿者が長期出張にでかけてしまい、孤独にさいなまれる漱石は新聞を読んでもっと家賃が安く、都心に出やすいらしい下宿をさがしたのでしょう。妻への手紙でも「以前のところは東京の小石川のようなところであったが、今回は深川のようなところである。どちらにしても辺鄙なところである。」と書いていますが、ロンドン北西部の住宅地からテムズ川南岸の工業地帯のようなところに越したのです。住所はカンバーウェルのフロッデン通り6番地(6 Flodden Rd, Lambeth, Greater London SE5 9)です。

ハーマジェスティー劇場 ここは深川にというより大震災後に大変貌をとげた東京の現状からすると、杉並から川崎に越したようなものと言ったほうが今ではわかりやすいかも知れません。
 同じことを「倫敦消息」に書いていますが、その中に「せんだって「ハー・マジェスチー」座で「トリー」の「トェルフスナイト」を見た。脚本で見るよりはる)かに面白い。」と書いています。
 写真がその芝居小屋、というより名前に負けない宮殿みたいな作りの劇場ですが、ヘイマーケットという漱石が最初の宿から迷い出てたどり着いたトラファルガー広場に続く通りにあります。私も通学の帰りに毎日この前でバスを待っています。この劇場は何度か建て変わった最後のものが現存していますし、漱石が芝居を観たのも現在の建物です。
 その100年前にはこの劇場は(建物は建替わってはいますが)ヘンデルがここを中心にオペラやオラトリオを発表し、ということは彼の主人であるジョージ王がドイツから来て、現在の英国王朝のもととなるハノーバー朝を立ち上げたばかりのころに既にここにあったものです。

ドアの前 19世紀がまさに終わろうとする1900年10月28日に、ロンドン生活の第一歩を踏み出した夏目漱石はブルームズベリーの一角に仮の宿を置きました。ここは今でも留学生が多く住んでいます。漱石が寄宿した76番地も当時のまま残っています。一時はドアがはずされていたとも聞いていますが、今はドアもあり番地も表示されています。漱石はここが4階建てと書いていますが、実際は3階と地階です。ビクトリア朝の建物にはよくあるもので、現在の英国の建物だと1階にあるキッチンや洗濯場は地階にあります。そして、使用人の居室もそこにあり、文字通り下働きのための区域でした。でも、人工照明の乏しい当時の知恵として、明り取りの堀が掘ってあるのが見えますね。一階は玄関ホールや応接間、書斎などを置き、バスルームは2階。ベッドルームは2階以上にあります。

 ここは大英博物館も近いところです。この博物館は当時は図書館も併設していて世界中の碩学が集っているところでした。
 資本論を書いたカール・マルクスも、既にその第三部まで公刊して、まだ毎日をその図書館で研究を続けている、ちょうどそのころです。とはいえ漱石の頭の中には既に亡くなったカーライルのことしかなかったようで、彼の著書にも行動にも全くマルクスの影は見えません。歴史学者でも経済学者でもなく、英語教師であった漱石の守備範囲からは全く外れていたのでしょう。

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